映画『正欲』を観終えた後、心にずっしりと残る「息苦しさ」や、登場人物たちの行動に感じた「言葉にならない正しさ」の正体について、答えを探しているのではないでしょうか。この記事では、単なるあらすじのネタバレ解説に留まらず、なぜ私たちがそう感じるのか、その感情の構造を、作中の象徴表現や社会的な文脈から深く解き明かしていきます。結論から言えば、その感情の正体は、私たち自身の中にある「理解できない他者」に対する、無自覚な“普通”という名の暴力性を突きつけられるからです。この記事を読めば、そのモヤモヤが深い納得に変わります。
結論:鑑賞後の“息苦しさ”の正体は、あなたの中の「マジョリティ性」との直面
この映画を観て感じる息苦しさの源泉は、極めてシンプルです。それは、この作品が「観客である私たち自身」に、マジョリティ(多数派)としての無自覚な加害性を突きつける“鏡”として機能するからです。
私たちは物語を見るとき、無意識に誰かの視点に立って感情移入しようとします。しかし『正欲』は、主要な登場人物の誰にも完全には共感しきれない巧みな構造を持っています。その結果、私たちは安全な傍観者ではいられなくなり、「理解できない彼ら」を裁く側の視点、つまりマジョリティの視点に立たざるを得なくなるのです。その瞬間に感じる居心地の悪さこそ、この映画が仕掛けた罠であり、息苦しさの正体です。
graph TD
subgraph 社会
A["社会が定義する“普通”<br>(異性愛、結婚、出産など)"]
end
subgraph 登場人物たちの世界
B["登場人物たちの“現実”<br>(特殊な性的指向)"]
end
subgraph 観客の立ち位置
C(観客である「あなた」)
end
A -- 断絶/無理解 --> B
C -- 鑑賞 --> B
A -- 内面化された価値観 --> C```
なぜそう言えるのか?専門家が解説する『正欲』の3つの構造
1. 象徴としての「水」:彼らにとっての“聖域”
多くの人が「結局、『水』ってどういう意味なんですか?」と疑問に思うようです。これは物語の核心に触れる最も重要な質問です。作中における「水」は、単なる性的フェティシズムの対象ではありません。それは、社会の価値観や“普通”の物差しが一切届かない、彼らにとっての唯一の“聖域”なのです。
マジョリティの論理が通用しないその場所でだけ、彼らは何者かを演じる必要なく、ただありのままに存在することが許されます。だからこそ、彼らは水に執着し、その聖域を守ろうと必死になる。この構造を理解すると、彼らの行動が単なる奇行ではなく、自らの尊厳を守るための切実な闘いに見えてきます。
2. “都合のいい多様性”への痛烈な批判
現代社会は「多様性」という言葉を頻繁に使いますが、この作品は、その多くがマジョリティにとって“都合のいい多様性”に過ぎないのではないかと鋭く問いかけます。
社会が許容する多様性とは、多くの場合、マジョリティが理解し、カテゴリー分けできる範囲内に限られます。しかし、『正欲』が描く性的指向は、そのカテゴリーから逸脱した、まさに「理解不能な」ものです。私の経験から言わせていただくと、多くの人がこの作品を「特殊な性癖を持つ人々の話」として自分から切り離そうとしますが、それこそが、私たちが無意識に行っている選別であり、この映画が批判する「マジョリティの無自覚な暴力性」そのものなのです。
3. 共犯者としての観客:裁く側に立つということ
この映画の最も巧みな点は、観客を安全な位置に置いてくれないことです。検事の「想像力が及ばないことだってある」というセリフは、一見マイノリティに寄り添っているように見えて、実は「理解できないものは存在しないものとして扱う」というマジョリティの傲慢さを象徴しています。
そして、登場人物たちの行動を「理解できない」と感じた瞬間、私たち観客もまた、この検事と同じ側に立ち、彼らを裁く「共犯者」にさせられてしまうのです。この構造によって、物語はスクリーンの中だけの話ではなくなり、私たち自身の問題として突きつけられます。この当事者性こそが、深いレベルでの感情的な揺さぶりを生み出しているのです。
考察を深めるために。あなたの「視点」を問い直す3つのポイント
では、この作品とどう向き合えば、さらに深い理解にたどり着けるのでしょうか。ここでは3つの視点を提案します。
1. 原作小説との比較で浮かび上がる“内面”
映画というメディアの特性上、登場人物たちの詳細な心理描写は一部省略されています。もしあなたが彼らの行動原理をさらに深く知りたいなら、朝井リョウ氏による原作小説を読むことを強くお勧めします。
| 比較ポイント | 映画版『正欲』で描かれたこと | 原作小説で深く描かれる心理描写 |
|---|---|---|
| 夏月の内面 | 自身の指向を隠し、社会に擬態する苦悩。 | なぜ彼女がそこまでして「普通」の家族を演じようとしたのか、その切実な動機と内面の葛藤。 |
| 佳道の孤独 | 社会との断絶と、初めての他者との接続。 | 彼が長年抱えてきた絶望的な孤独と、夏月との出会いがもたらした救いの詳細な描写。 |
| 社会の視線 | 周囲の人物の断片的なセリフ。 | マジョリティ側の人物たちが、いかに無自覚な偏見で彼らを追い詰めていくかの詳細なプロセス。 |
2. 他の朝井リョウ作品との接続
『正欲』のテーマは、実は作家・朝井リョウが一貫して描いてきたテーマの延長線上にあります。例えば、代表作『桐島、部活やめるってよ』では、学校という閉鎖空間における「スクールカースト」が描かれました。これもまた、マジョリティとマイノリティの残酷な分断の物語です。『正欲』と『桐島』を続けて観ることで、社会のあらゆる場所に存在するこの普遍的な構造に気づかされるはずです。
3. 現実社会との接続
この物語はフィクションですが、描かれている「マジョリティによる無自覚な抑圧」は、現実社会の至る所で見られます。SNSでの炎上、特定の属性へのヘイトスピーチなど、私たちが日常的に目にするニュースとこの作品を結びつけて考えてみてください。そうすることで、登場人物たちが感じていた「息苦しさ」が、決して他人事ではないことが理解できるでしょう。
『正欲』ネタバレに関するQ&A
Q1. 映画のラスト、結末はどうなりますか?
A1. 物語の終盤、夏月と佳道、そして大也の三人は、彼らにとっての聖域である「水」を共有する場を見つけます。しかし、その行為が世間に知られることとなり、大也は逮捕され、夏月と佳道も社会的な制裁を受けます。彼らは物理的に引き裂かれますが、ラストシーンでは、それぞれが社会の中で孤独に生きながらも、確かに存在した繋がりを胸に秘めていることが示唆されます。
Q2. 夏月や佳道はなぜ逮捕されなかったのですか?
A2. 直接的に逮捕されたのは、未成年者である八重子を事件に巻き込んだ大也です。夏月と佳道の行為は、法的に罰せられるものではなかったため、逮捕はされませんでした。しかし、彼らは職を失い、人間関係が崩壊するなど、法とは別の「社会的制裁」を受けることになります。この対比が、社会の“普通”から外れた者への罰のあり方を問いかけています。
Q3. 原作と映画の最も大きな違いは何ですか?
A3. 最も大きな違いは、前述の通り「心理描写の密度」です。映画は映像で状況や感情を雄弁に語りますが、原作は文章でしか表現できない、より詳細で複雑な内面の葛藤を描いています。特に、登場人物たちが自身の指向をどう自覚し、社会と折り合いをつけようとしてきたかの歴史は、原作を読むことでより深く理解できます。
まとめ
映画『正欲』の鑑賞体験は、単に物語を追うことではありません。それは、自分の中にある“普通”という物差しを自覚し、その危うさに気づくプロセスそのものです。あなたが感じたモヤモヤや息苦しさは、この作品と真摯に向き合った何よりの証拠です。ぜひこの記事をきっかけに、もう一度作品の世界に深く潜り、あなた自身の答えを見つけてみてください。
→ あわせて読みたい:映画『桐島、部活やめるってよ』が描くスクールカーストの本質
参考文献
- cinemarche.net「映画『正欲』ネタバレあらすじ結末と感想。」
- note.com「ネタバレ感想文 映画『正欲』」
- bookmeter.com「『正欲』(朝井リョウ)のネタバレありの感想・レビュー一覧」
